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横浜地方裁判所 昭和35年(わ)463号 判決 1960年9月02日

被告人 川畑留市

昭九・九・一八生 無職

主文

被告人は無罪

理由

本件公訴事実の要旨は「被告人は、浜元敏男と共謀の上、昭和三三年三月二〇日午後一一時頃横浜市保土ヶ谷区瀬戸ヶ谷町四六番地小久保裕子方において、同人外三名所有の別紙目録記載の女物袷一枚外衣類等二七点(時価合計金一一万九九八〇円位)を窃取したものである。」というのである。

よつて、審接するに、小久保裕子作成の被害届及び盗難追加届の各謄本、同人の司法警察員に対する供述調書の謄本によれば、本件公訴事実記載の日時場所において、小久保裕子他一名がその所有にかかる別紙目録記載の女物袷一枚外衣類等二七点について盗難にかかつたことが認められると共に、浜元敏男の検察官に対する供述調書の謄本によれば右犯行は浜元敏男と被告人との共謀によるものであることが一応肯認し得ない訳ではない、ところが、被告人は警察及び検察庁における取調においては勿論、当公廷においても、終始右犯行を否認し、一方前記浜元敏男も、当公廷で、証人として取調を受けるにあたりさきに検察庁で供述したことを飜し、本件犯行は同人と被告人との共謀によるものではなく、同人の単独犯行であると供述するにいたり、前に被告人との共謀による犯行である旨偽りの供述をした動機原由について、同証人は、自分は前記小久保裕子方における盗難事件の被疑者として昭和三三年三月下旬頃警察に逮捕せられ拘禁されるにいたつたが、被告人は以前から自分と親交がある上自分が前記小久保方で窃取した品物を処分して得た金員でその後同人と行動を共にしていた間その飲食代はもとより宿泊費等まで自分が支払い種々同人の面倒を見て来たに拘らず自分が拘禁されてから後は面会は勿論、金品の差入れにもこなかつたところから再三係官に対し被告人が面会に来るよう取計らい方を依頼したけれども、当時被告人の所在が明かでなかつたことから、同人との連絡がとれないまま日時が経過するうち自分は同人の不人情を恨むようになりその結果遂に従前の単独犯行の供述を飜し、本件は被告人と二人でやつた犯罪である旨自供するにいたつたとそのいきさつについて供述している。

そこで、証人平方国雄、同山崎粂行、同浜元敏男の当公廷における各供述、本田良助、中村サマの各司法警察員に対する供述調書の謄本、浜元敏男の検察官に対する供述調書の謄本及び被告人の司法警察員並びに検察官に対する各供述調書を綜合すると、浜元敏男は、さきに本件盗難事件についての容疑を受け保土ヶ谷警察署に逮捕拘禁され、取調べを受けた際、当初単独で本件犯罪を行つたものと述べ、警察でも浜元の単独犯行として検察庁へ事件送致の手続をなし、検察庁もまた浜元の単独犯としてこれを起訴したがその後浜元の供述の変更に伴い浜元と被告人との共謀による犯行と訴因が変更せられた上審判されていること、浜元と被告人とは昭和二九年頃からの知り合いで、事件当時もその一週間程前から横浜市南区中村町の富久屋旅館に一緒に宿泊し起居を共にしていた仲であること、浜元が昭和三三年三月下旬頃本件で逮捕されてから後警察において頻りに被告人との面会を希望し、係官に対し「川畑を連れて来て面会さしてくれないか」等と依頼する傍ら「川畑は友達だから差入れ位してもいいぢやないか」と同人に対する憤懣の片鱗を洩らしていたこと及び当時川畑の所在が不明であつたため同人との連絡がつかず一方係官も共犯者であればいざ知らず何ら理由もないのに連れて来る訳には行かないと言つていたところ同年四月一三日頃にいたつて、浜元が同年三月二〇日の犯行は、同夜九時頃と一一時頃の二回にやつたもので、前の犯行は自分独りでやつたものであるが後の犯行は、被告人と二人でやつたものである旨従前の供述を飜し、且つ、その点について上申書を書き、又司法警察員及び検察官に対しても同趣旨の供述をなすにいたつたことが認められる。

そうだとすると、浜元は、本件について、警察に逮捕拘禁されてから後は、しきりに被告人との面会を要望し続けていたが、被告人の所在が当時不明であつたところから、その希望が達せられないでいたところ浜元としては被告人が無情にも自分を棄てて姿をくらましたものと一途に思いこみ不人情な同人の仕打に対し憤懣に堪えないものがあつた折柄係官から被告人が共犯者であれば令状によつて逮捕して連れて来ることも出来るが何ら理由もないのに被告人を警察に連行することは出来ないと言われたところから遂にあさはかにも被告人をことさら本件犯罪の共犯者のようにして警察に連行せしめ同時に同人に対するうつ憤を晴らそうと考えるにいたりその結果遂に浜元は、故意に、本件は被告人との共謀によるものと虚偽の供述をなすにいたつたものでないかとの疑いが多分に存する。

そこで、右浜元の供述内容の真実性ないしは信憑力については検討を加えると

証拠として提出された浜元敏男の検察官に対する供述調書の謄本によると、浜元は、小久保裕子方から窃取した品物四九点の中、独りで盗んだ品物として、しゆ色菊模様及びとび模様裏しゆ色の訪問着一枚の外二一点を挙げその品名数量を具体的に述べておりそれ以外の二八点は浜元と被告人の二人で盗んだ物であると述べているのであるがそのうち被告人が浜元と共謀で窃取したという霜降男物背広上衣一着について更に検討を加えて見るに拓植次郎の司法警察員に対する供述調書の謄本、証人拓植次郎同浜元敏男の当公廷における各供述、証人小沢五百三に対する尋問調書、被告人の司法警察員に対する供述調書浜元敏男作成の提出並びに事実顛末書及び任意提出書の各謄本及び山本粂行作成の昭和三三年四月五日付領置調書の謄本を綜合すると、昭和三三年三月二〇日頃の午後一〇時頃浜元は、小久保裕子方で窃取した品物を持つて、自動車で横浜市南区南吉田町の拓植次郎方に至り右盗品を同人方に一時預けた後、同日午後一〇時過ぎ頃同市睦町の小沢五百三方に被告人を訪ねたこと、被告人は同日午後八時頃から右小沢方に居たが、同日午後一〇時半か一一時頃浜元と一緒に同家を立ち出たこと、同日午後一二時近い頃浜元は被告人と共に再び右拓植方を訪ね先きに預けた盗品の一部を残し他は全部持ち去つたこと、浜元が右小沢方を訪れた時の同人の服装は、同日午後六時頃被告人が伊勢佐木町で、浜元と別れた時の服装と全部変りこぎれいとなつていたこと、そして浜元が小沢方に来た時同人が着ていた霜降男物背広上衣を偶々同夜小沢方に来ていて当時小久保が経営していたバーでバーテンをしていた武藤某が、一見して不審に思うと同時にそれが自分の上衣に間違いないと断定したことが認められる。

以上の事実からすると、同年三月二〇日午後一〇時過ぎ頃浜元が小沢方に被告人を訪れた時、同人は既に小久保裕子方から窃取した霜降男物背広上衣を着用しておつたことが明かであるからその背広上衣は被告人と共謀の上窃取した盗品の一部であるという浜元の前記供述自体果して真実であるか否か疑問とせざるを得ない。

同様のことは、本件盗品中のレインコート一着についてもいえるのであつて、浜元敏男の検察官に対する供述調書の謄本によれば、右は被告人と共謀の上小久保方で窃取したものの一つになつているが、拓植次郎の司法警察員に対する供述調書の謄本によると、浜元は、小久保裕子方から窃取した衣類等の包みを、更にレインコートで包んで前記拓植方に持つて来たこと、そして前記のように拓植次郎方に、右品物を一時預けた上同人方を立ち去るに当り右レインコートを着て出て行つたことが認められると同時に被告人の司法警察員に対する供述調書によれば、浜元が同夜前記のように小沢の家に被告人を訪ねた時、浜元はレインコートを着ていたことが認められる。果して然らば前認定のようにその時の浜元の服装が前に被告人が同人と伊勢佐木町で別れた時の服装と全部変つていたことに鑑み右レインコートは、浜元が単独で小久保方から窃取したものと認めない訳にはいかないのであつて到底これを被告人と共謀の上で窃取したものと認めることはできない。

したがつて、浜元が被告人と共謀して小久保裕子方から右背広上衣一着及びレインコート一着を窃取したという同人の自供自体に到底看過することのできない重大な矛盾を内包しているものといわなければならない。

もつとも、浜元敏男は、第五回公判において証人として出廷し、右背広上衣一着は逮捕の当時着用していたもので、昭和三三年三月二〇日午後一〇時過ぎ頃小沢方を訪ねた時着ていたものではない旨供述しているけれども、右供述は前掲各証拠に照らしたやすく措信し得ないところである。

尚、検察官は第四回公判において、起訴状記載の公訴事実における女物袷一枚他衣類等二七点の品名等を釈明するに当り、その中にアメリカ製丸型小型置時計一個を挙げているが、拓植次郎の司法警察員に対する供述調書及び同人作成の任意提出書の各謄本、山崎粂行作成の昭和三三年三月二三日付領置調書の謄本及び証人浜元敏男、同拓植次郎の当公廷における各供述によれば右置時計は浜元が小久保方からこれを窃取した後、拓植次郎方に立ち寄り、自動車賃四〇〇円を同人から借用した上同人方から立ち去るに際し、他の三点の盗品と共に同人に預けたことが明かであるからこの置時計もまた浜元が被告人と共謀して窃取したものではないといわなければならない。もつとも浜元敏男の検察官に対する供述調書の謄本には右置時計は浜元が単独で窃取した品物の一部であると見られる供述記載がない訳ではないが、この点の供述記載は当裁判所においてもこれまたにわかに措信しないところである。

しからば、浜元が当初の単独犯行の供述を飜がえし被告人との共謀によるものと供述するにいたつた経緯と、浜元の検察官に対する供述自体に存する叙上の矛盾憧着とを併せ考えると、浜元の検察官に対する供述が真に信用に価するか多大の疑問を抱かざるを得ないのであつてこのことは富宇加光夫作成の預り事実並びに提出始末書の謄本を斟酌しても何ら変るところはないからたやすくこれを採つてもつて被告人に対する断罪の資料とすることはできない。のみならず、他に被告人が浜元と共謀して本件犯行を行つたことを認めるに足る確証は何等存在しないのである。

もつとも、被告人と浜元の当時の交際の程度、事件当日の午後一〇時三〇分頃両者打ち揃つて小沢五百三方を出て行つた点等からして或いは本件は被告人と浜元の共謀による犯行ではないかとの疑いをさしはさむ余地も存在しない訳ではないが、唯その疑いがあるということだけで、被告人を有罪と断ずることのできないことは当然である。

しからば、被告人に対する本件公訴事実については、結局犯罪の証明がないということに帰するから被告人に対し刑事訴訟法第三三六条後段によつて無罪を言渡すべきものとして、主文のとおり判決する。

(裁判官 松本勝夫 阿部哲太郎 井上隆晴)

目録(略)

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